本当に歪んでないのか、本当は歪んでいるのか
宮口幸治さんの「ケーキの切れない非行少年たち」を読んだ。話題のビジネス書。近所の本屋どこに行っても、絶対に1番目立つところに置いてある。
なんと言っても読みやすい。10年以上前、高校生になったから新書を読んでみようと手に取った本が相性が悪く、全然読めなかった。以降新書は全く読んでこなかった。それが最近読みたいと思えるようになった。そんな変化の中でぐいぐい心に入ってきた一冊だ。
非行少年と私を比較する
非行少年の特徴として著者は4+1の傾向を挙げている。認知機能の弱さ、感情統制の弱さ、融通の利かなさ、不適切な自己評価、それに加えて身体的不器用さである。
これらの5つの特徴について「私は全く当てはまらないから正常だ」とは思えなかった。むしろ私もどこか当てはまるんじゃないかとそわそわした。明確に私は認知機能はしっかりしているし、感情は統制できているし、融通はきくほうだし、自己評価は適切だし、身体だって器用だ!なんて言える人なんているのだろうか。
非行少年と私、明確に区別できる差はあるのだろうか。
私は高校生の時くらいから何となく自分で自覚していることがある。聞いて理解して頭に落とし込むのが他の人より苦手なのだ。私には、聞いたことを理解するのに、一度手で書く動作がいる。頭の中にあるものを伝えるのにも紙に書いてからの方がやりやすい。人よりもずっと書く必要があった。聞く力、伝える力が弱いから、書く力でカバーしていた。
当時はこんなに文章化はできなかったが、とにかく自分の頭の中でぐちゃーっとなったものは紙に書いていた。ああ、私は書いた方がいいと何となく思っていた。
また、私は他の人の動きを真似するのも苦手だ。これをはっきりと自覚したのは大学の学部の歓送迎会で出し物のダンスを練習した時。YouTubeのダンスの真似がパッとできない。左右がパッと出ない。じーっと見て頭で考えてからでないと身体が動かない。
ただ、私は、自分にはこういう弱点があるからこういう風にした方がいい、と客観的に自分を考察することができた。なるほど、そこが違ったのか。明確な差だったのか。そしてそれが大切なのではないか。
私は自己評価がよくできていたのだろう。だから、弱点をカバーできた。全部正常じゃなくても、そこそこできたらあとは出来る部分で出来ないことをカバーしたらいい。
そのそこそこまで能力を挙げておくのが大変なのかもしれないが。
学校の機能
4+1の傾向をカバーする、特に学習の土台となる基礎的な認知能力や、対人関係、感情コントロールなどの社会面の能力の底上げをする。そのための系統的な教育内容は今の学校にはない。これは問題だろう。何年も前から「生きる力」が学習指導要領の文面にある。生きる力とは何だろう。社会に出たときに困らない程度に生活ができる力、「生き抜く力」だと思う。それはまさに、この系統的な教育内容の無い部分ではないのか。
そして、学校には、特に公立の小学校などには、いろいろな子どもがいる。能力の差は著しい。出来る子に合わせるのか、出来ない子に合わせるのか。「真ん中に合わせなさい」と言われたことがある。それでいいのか。
出来る子出来ない子、得意な子不得意な子、ごちゃまぜにいるからこそ意義があるような、そんな教育はできないのか。出来る子がもっともっと生き生きと伸び、出来なかった子が出来るようになり、みんなが満足する教育の在り方は何だろうか。
今の私には答えは無い。だから、これからちゃんと私の中でこの答えを探っていきたい。
とりとめもなくなったが、教育に携わる者として、この本を読めてよかった。こんなことをクリスマスに考えて文書にしているのがなんか面白い。がんばれ私!
2019/12/25