この世界にアイは、
西加奈子さんのアイを読んだ。読んでからずっと、脳みそのはしっこにアイがくっついている。ふとした瞬間に考えている。
世界と個
アイを読んで私が強く考えるようになったのは、「世界」と「私」。
幼い頃は、1人の個人が有する「世界」はきっと家族だとか幼稚園だとか、顔見知りだけで終わるものだったと思う。そんな「世界」ではきっと個は鮮やかだ。意識しなくても「私」はいる。
でも「世界」は広がった。情報によって繋がった「世界」はびっくりするほどに広い。果てしなく広い。その「世界」では、毎日人が死に、死はまるでなかったかのように、何も変わらずに日常が続いていく。果たしてそこに「私」はいるのだろうか。
「世界」は広がった。代わりに「私」は薄まったのか。「私」の目の前には「あなた」がいる。「あなた」と「私」の住む日常は、「世界」とはかけ離れたどこかなのか。
死者の数をノートに書き込む
アイの死者の数をノートに書き込むという行為が世界の虚しさを私にひしひしと伝えた。世界でこんなにも人が死んでいるのに、私は何をしているのだろう。特にそれを痛感したのが、198、199の2ページに渡って羅列された2014年の記録。生を授かろうとがんばるユウとアイ、その間にこれだけの人が死んでいるのに、アイには命が宿らない。圧倒された。こんな伝え方があるのか。
アイにとっての「死者の数の記録」は世界を想像すること。世界を知ろうとすること。
ずっとあった「私」
本当はこの世界に「私」はずっとあった。
愛してくれた人がいたから「私」ができたのではない。ずっと世界にあった「私」を愛してくれた人がいた。だから「私」はここにいる。
ミナと再び出会い、お互いに語り合い、肌を寄せ合うことでアイが気づいたこと。
「世界」の中に埋もれそうになろうとも、絶対に「私」はいる。
アイデンティティとか、ルーツとか、私が私である理由とか、考えだすとキリが無いし、どんどん私が分からなくなるけど、私は私だし、私が世界の人の悲しみや嬉しさを想像することで、その人も私の中で生きることができる。
世界とともに生きる
世界のどこかで起こっている悲劇に思いを馳せて、一緒に悲しむことと、自分の今目の前にある日常を大切にすることとを両立させよう。どっちも大切。無駄じゃない。
くるくるぐるぐる考えながら、私はこれから生きていきたい。とりあえず、明日注文していた「テヘランでロリータを読む」が届く。読んでみよう。
2019/12/23
世界の片隅にちゃんといる私を感じて